プロジェクトX 挑戦者たち 第6期
ぷろじぇくとえっくす ちょうせんしゃたち だい6き



無名の日本人を主人公とした「挑戦と変革の物語」。
知られざるドラマを伝える話題のシリーズ第6弾。


ジャンル 作品名
教育・学習 プロジェクトX 挑戦者たち 第6期
巻数・セット数 機種/時間 制作年 対象
VHS/全10巻セット VHS/各巻43分 2003年 中学生〜一般
DVD/全10巻セット DVD/各巻43分+特典映像26分
上映 企画/制作
企製作・発行/NHK
定価(本体価格)
VHS・DVD/全10巻セット 36,191円(税込38,000円)
適要

キャスター:国井雅比古アナウンサー/膳場貴子アナウンサー  語り:田口トモロヲ
主題歌:「地上の星」 作詞・作曲:中島みゆき
〔DVD特典〕
・主題歌「地上の星」プロモーション映像
・エンディング曲「ヘッドライト・テールライト」イメージ映像
・各巻紹介(第6期全10枚分)
◎日本語字幕オン・オフ機能つき




各巻内容詳細


第1巻
■運命の最終テスト〜ワープロ・日本語に挑んだ若者たち

48字のひらがなと5万の漢字がおりなす世界に冠たる美しい言葉、日本語。しかし戦後、日本語はその複雑さゆえ、経済復興の足かせとなった。
昭和40年代、高度成長期の日本は企業間の取引が増大。サラリーマンたちは契約書の作成に追われていた。欧米の企業は26文字のアルファベットを駆使、誰もがタイプライターで契約書を作った。一方、日本では活字が打てるのは数少ない和文タイピストだけ。順番を待ちつづけ、誤字があればまた待った。サラリーマンたちは長い残業に耐えていた。公の文書を作るコストは、欧米の3倍と言われた。その日本語の壁に、東芝の若き技術者・森健一と工場の男たちが立ち向かった。文章を加工する機械「ワード・プロセッサー(ワープロ)」。かなを一瞬にして漢字に変換する、不可能と言われた技術に挑んだ。
しかし、同音異義語、同じ発音の言葉を機械は区別できない。「貴社の記者は汽車で帰社する」どうやったら正しく変換できるのか。また、変換するのに20秒以上かかる言葉もあった。そして突然、商品化を決定する事業部長から開発中止命令が下った。
絶体絶命に陥ったプロジェクトは、一度限りのワープロの性能テストに全てを賭け、機械の操作を一人の女性に託した。タイピストではなく、総務の事務員。「素人でも使えなければ意味が無い。」累計3千万台を売り上げ、国民的商品となったワープロの執念の開発物語を描く。


第2巻
■革命トイレ 市場を制す

心地よいお湯でお尻を洗い温風で乾かす「温水洗浄便器」は、古来「ご不浄」と呼ばれ、不潔の代名詞だったトイレのイメージを、「快適」で「清潔」な空間へと変えた革命的な製品である。
昭和45年、高度成長の只中にあった日本では、マイホームを求め、空前の建築ラッシュが起きていた。国内最大手のトイレメーカー・東洋陶器(現TOTO)で、水洗トイレの金具を設計する部署に配属された本村久は、その技術を甘く見ていた。しかしある日、本村は上司から一喝される。金具工場長の杉原周一。戦前、戦闘機の尾開発に携わり世界にその名を轟かせた伝説の技術者。金具の鬼と言われた杉原との出会いによって本村は技術者の誇りに目覚める。その矢先だった。二度のオイルショックの波が会社に襲い掛かる。「新しい柱となる商品を開発せよ」本村たち若手技術者に社運を賭けた指令が下る。任されたのは「洗浄便器」。
その開発は困難を極めた。お尻を洗うお湯の最適の温度と角度を見つけるために300人のデータを集め、自ら実験台となり試作を繰り返す。さらに、微妙な温度を制御するには最新式の電子回路技術が必要だった。しかし、感電の可能性のある電子回路の使用は危険な賭けだった。
発売した商品には、クレームが殺到。会社の廊下に返品された便座があふれた。プロジェクトは夜を徹して改良に当たる。そして昭和55年、温水洗浄便座「ウォシュレット」が完成。しかし、「トイレ」「おしり」は当時のメディアでは「タブー」。男たちは一人の天才コピーライターとともに誇りを賭け、一か八かの大勝負に打って出た。
世界商品となった革命トイレに挑んだ技術者たちの物語を描く。


第3巻
■突破せよ 最強特許網 新コピー機 誕生

アメリカの巨大な富を守ってきた盾がある。発明した技術を独占的に使える特許である。そのアメリカで最強の特許に守られた製品があった。普通紙複写機、コピー機である。特許はじつに1,100件。特許を持つゼロックスは、世界シェア100%を誇っていた。名うての弁護したちが世界中に目を光らせ、だれもコピー機を作れなかった。その難攻不落の特許網に挑んだ日本人たちがいた。
昭和35年、アメリカで開かれた事務機器見本市に電子複写機を持ち込んだ印画紙メーカーの技術者・田中宏は、ゼロックスが開発した世界初の普通紙複写機に衝撃を受けた。そのころ、キャノンカメラはカメラのトップメーカーだったが、市場は完全に行き詰まっていた。生き残りをかけ、キャノンは新たな人材を求めた。その面接に田中がやってきた。「普通紙複写機を作ってみせます。」
昭和39年、田中をはじめ、14人の若者たちが集結し、プロジェクトが動き出した。特許課の丸島儀一は、取り寄せたゼロックスの英文特許と格闘した。1つでも特許を侵害すれば訴えられる。
独自技術の開発は困難を極めた。試作機が作られ、極限の耐久テストが繰り返された。2交代制で試作機を動かし続けた。1万枚のコピーを終えた時、異変が起こった。2000ボルトの放電で感光体に穴が開いた。さらにテストを続けるとトナーで紙が真っ黒になった。7年たっても商品化できず、社内で非難の声が上がった。そして、1通の手紙が届いた。「特許侵害」…。
挫折を味わった技術者と日陰で耐えた特許マン、そして男たちの運命を切り開いた1台の複写機。世界の技術者たちの語り継がれる伝説の逆転劇を描く。


第4巻
■魔の山の大遭難 決死の救出劇

北アルプス立山連峰、岩と雪の殿堂といわれる剱岳。剣の刃先のごとく連なる鋭い絶壁。尾根から足を踏み外せば、深い谷に吸い込まれる「魔の山」である。 昭和30年代、登山ブームの影で年間500件の遭難事故がおきていた。そして昭和38年、北アルプス薬師岳で愛知大学山岳部13人が遭難し、全員死亡。救助チームの隊長を務めたのは、富山県警上市署の伊藤忠夫。伊藤はかつて最愛の弟を山で亡くしていた。
昭和40年、伊藤を指揮官とする富山県警山岳警備隊が発足。県内各地から体力自慢の若手警官たちが集められた。しかし隊員たちは、登山に関してはど素人の集団だった。伊藤は、山登りのエキスパートたちが住む立山町芦峅寺を訪ねた。芦峅寺の男たちは、黒部ダムの建設では140Kgの荷物を担いで立山連峰を越え、第一次南極観測隊では風速50mのブリザードの中、昭和基地建設を果たした伝説の山男たちの集まりだった。伊藤は技術指導を要請。そして、芦峅寺の佐伯栄治と佐伯友邦による山岳警備隊への指導が始まった。
昭和44年1月、剱岳で最悪の大量遭難が発生。15パーティー81人が雪山に閉じ込められた。創設わずか4年目の山岳警備隊は、芦峅寺の男たちに応援を頼み、山頂付近にいた金沢大学山岳部17人の救助に向かった。しかし猛吹雪の中、先頭を切っていたベテランが谷底に転落。芦峅寺の男たちは仲間を救出し、家族のもとに帰すために山を降りた。尾根には3人の若き警備隊員が残された。「残された時間はない」若き3人は遭難者が待つ山頂に足を踏み出した。
生死をかけ、山岳救助に挑んだ若者達の熱きドラマを描く。


第5巻
■日米逆転!コンビニを作った素人たち

70年代、小売業界17位だったイトーヨーカ堂。30代の若手社員がアメリカで新しいビジネスを見つけた。小さな店舗に豊富な日用雑貨を取りそろえた兆時間営業の店、コンビニエンスストアだった。
昭和46年、日本は大量諸費の時代を向かえていた。時代の主役はスーパーマーケット。中途入社で新しい事業の検討・プランニングを行う責任者の鈴木敏文と、部下の清水秀雄は、新規事業と小売業の視察のため度々アメリカを訪れていた。
ある日、二人は小さな店に出会う。「セブン-イレブン」便利な店・コンビニエンスストアと呼ばれるこの店には客が溢れていた。「これだ!」中小小売店と大型店との共存共栄の道を模索していた鈴木は、すぐさまその本社に向かう。ビジネスの秘密が詰まったマニュアルを入手するため提携交渉に挑み、難航を極めた末契約を結ぶが、帰国した二人に周囲は冷ややかだった。「やるなら君たちが責任をとれ、救助できるのは資本金の半額だ」二人は貯金を吐き出して資金を作った。
昭和48年、プロジェクトのメンバー集めが始まった。労働組合の元闘士、元商社マン、自衛隊員、パンメーカーの営業マン…。集まった15人はズブの素人だった。しかも、命運をかけたマニュアルは、日本では全く役に立たなかった。
昭和49年、江東区豊洲の酒屋を改造した一号店が開店。しかし、利益を上げるためには、徹底的に在庫を減らさなければならなかった。鈴木を中心としたメンバーは、小分け配送、集中出店等、流通の常識を破る幾多の手に打って出た。
「コンビニの誕生」に粉骨砕身し、日本の流通に革命を起こした小売の素人たちの熱い闘いと、日米逆転劇の物語を描く。


第6巻
■世界最大の船 火花散る闘い

昭和41年、横浜で世界最大の船の建造が始まった。船体の長さは東京タワーを凌ぐ342メートル、載貨物重量トンは20マン9千トン。積荷は原油、日本の一日の消費量を一気に運ぶ、日本の命運を賭けた船だった。
当時、世界中のタンカーは欧米の石油メジャーに握られていた。日本は割高な油に苦しんでいた。「自前のタンカーを持ち、直接中東から買い付ける。」立ちあがったのは、石油会社、出光興産。船の建造を請け負ったのは、石川島播磨重工業だった。その下に、鉄鋼、機械、電気、全国から1千社、36万人が集結した。
世界最大の船体工事、現場の指揮を託されたのは石川島播磨重工業の技術者、南崎邦夫38歳。入社三年目の事故で右足を切断。それでも現場を歩き続けた不屈の男だった。その南崎の前に次々と難問が立ちはだかる。
巨大な船体は、すべて電気溶接でつながなければならない。その溶接部分の総延長はなんと400km。しかも、最強の鉄板「ハイテンション鋼」は溶接が極端に難しく、溶接部分はことごとく真っ二つに折れた。史上最強のエンジンが生み出すパワーを直径7.8メートルのスクリューに伝える巨大シャフトは、軸受けに原因不明のズレが生じ、取り付けられない。過酷な仕事に耐えかねた作業員たちは、次々と現場を去って行った。そして、運命の処女航海。東シナ海で巨大台風に襲われた。
造船王国・日本の誇りを賭けた人々の壮絶なドラマを描く。


第7巻
■衝撃のペルー 男たちは生き抜いた

平成8年12月17日、世界を震撼させる代事件が南米・ペルーで起きた。日本大使公邸人質事件である。襲撃したのは、MRTA・ツパクアマル革命運動と名乗る武装グループ。天皇誕生日の祝賀パーティーに招かれていた招待客600人余りを人質に取り、刑務所に収監されている仲間の釈放をペルー政府に要求した。最後まで人質に残されていたのは72名、その中に「13人の日本人サラリーマン」がいた。平均年齢は53歳。南米各地で働いてきた機業戦士たちだった。
人質たちは、およそ十畳一間の空間に閉じ込められ、建物の各所に爆弾が仕掛けられた。トイレは、人質達が身分を隠そうとして捨てた身分証で詰まり、悪臭を放った。皆、蒸し風呂と化した部屋の中で、靴を枕に眠った。ペルー政府と武装グループの交渉は難航し、監禁生活は長期化。人質たちは、身体に変調をきたし、危機が迫った。
そして、人質たちの健康を守るため、日本赤十字社職員の中田晃をリーダーに、医師、看護師、通訳、総勢6名からなる緊急チームが召集された。いつ撃たれるかわからない不安の中、中立の立場を示すため、防弾チョッキも着けずに公邸へと向かった。医師の鈴木隆雄(当時46歳)は、衰弱した人質たちを懸命に治療し、希望を与え続けた。
そして事件発生から127日目、ペルー政府が強行突入した。激しい銃撃戦が繰り広げられ、人質達がいた部屋は赤い炎で包まれた。絶体絶命の人質たち、その運命は…。


第8巻
■爆発の嵐 スエズ運河を掘れ

地中海と紅海を結ぶスエズ運河。全長163km、19世紀に12万人の命をかけて作られた世界の海運の大動脈である。しかし、巨大タンカーの出現で、幅78mの狭い運河は存亡の危機に立った。昭和36年、エジプトの国家プロジェクトとして始まった運河の拡幅増深工事に挑んだのは、日本の海洋土木会社・水野組(現 五洋建設)の技術者たちだった。
工事の主役は、10億円をかけた5,000馬力のポンプ船「スエズ号」。しかし、水底にはコンクリートの5倍も硬い「悪魔の岩盤」が眠っていた。土砂を削るカッターの刃先は2時間でボロボロ。1日3回交換を迫られ、その都度掘削が止まった。さらに狭い運河を通行する船団との衝突の危機が、プロジェクトを悩ませた。
昭和42年、イスラエルの戦闘機が突如爆撃を始めた。第3次中東戦争の勃発だった。水野哲太郎は新たな工事区域の入札のため、砲弾の中、スエズ運河庁に向った。運河庁長官マシュフールに入札の書類を手渡し、固く握手をかわした。しかし現況は悪化。運河は閉鎖され、工事は中断。技術者たちとスエズ号はやむなく帰国した。
中東戦争集結後、水野のもとに国際電話がかかった。電話の相手はマシュフール。「あの時の契約は生きている。新たな工事をあなたにお願いします。」水野はすぐにエジプトに飛び、契約に挑んだ。工事計画は前回をはるかに凌ぎ、海外の工事で戦後最高の受注額だった。しかし再開された工事にもう一つ難題が降りかかった。運河に残された大量の不発弾だった。ポンプ船の中で爆発、現場は騒然となった。プロジェクトの命運を賭け、日本人ダイバーらによる不発弾処理チームが組織された…。
日本の海洋土木技術の威信をかけ、国際舞台に挑んだ男たちの壮絶なドラマを描く。


第9巻
■執念のテレビ 技術者魂30年の闘い

大正15年、浜松市の工業学校の一室で、信じられない実験が行われた。手書きの「イ」の字を電子画像に映し出すというテレビ実験。歴史的な快挙だった。挑んでいたのは若き研究者、高柳健次郎。ここからテレビの時代は始まった。
高柳は一人で電子カメラの開発に挑んだ。最大の壁は撮像管。カメラの中で動く映像を捉える要の部品。8年間研究したが、辿りつけなかった。ある日、アメリカで撮像管が完成したというニュースが飛び込んだ。開発したのは世界有数のラジオメーカーRCA。アメリカに渡った高柳は衝撃を受けた。電子工学やガラス加工、真空管技術、各分野の技術者数十人が集まり、撮像管を完成させていた。帰国した高柳は、技官や学生など20人を集め、プロジェクト型開発に挑み始めた。そして1年後、独自の撮像管が完成した。
間もなく、日本放送協会から昭和15年に東京で開催されるオリンピックに向けて、テレビの開発を依頼される。高柳はプロジェクトのメンバーとともに浜松を離れ、東京のNHK技術研究所で、放送実現に向けて開発に邁進する。しかし日本は戦争への道をひた走り、オリンピックは幻に消えた。テレビ放送開発は中止、プロジェクトチームも解散を余儀なくされる。高柳は海軍に徴兵され、レーダー開発を命じられた。
そして終戦。高柳は「日本の復興のためにテレビを産業に育てよう」との思いを胸に抱く。ところがGHQから「テレビ研究は電波兵器につながる。禁止だ」と拒否される。さらに高柳自身、戦争協力者だとして職を追われてしまう。
しかし高柳は諦めなかった。GHQから研究禁止が解除されると、メーカーの壁を越えてプロジェクトの結成を呼びかけ、テレビ開発を再開。昭和28年2月1日の日本初のテレビ放送開始に向けて動き出す−。テレビに賭けた一人の技術者とそれを支えた仲間たちの30年にわたる壮大なドラマ。


第10巻
■太平洋1万キロ 決死の海底ケーブル

昭和40年代、国際電話はアメリカが牛耳っていた。太平洋に初めて電話線のケーブルを敷設したのは、アメリカの電話会社AT&T。アメリカまでの通話料は5分間で6000円を超えた。「アメリカを凌駕する海底ケーブルを作ろう」KDD(国際電信電話)を中心に、電線、電機メーカー8社200人の技術者が集結し、「日本連合」を結成。莫大な情報を一瞬で運べる確信的な通信技術「光ファイバー」を収めた海底ケーブルを敷設するプロジェクトが動き出した。しかし、敷設には大きな問題があった。ケーブルを襲うサメ、固い岩場、そして最大の難所、日本海溝水深1万mの水圧だった。
昭和63年、日本とアメリカ双方からケーブルを敷き、太平洋の真ん中でドッキングさせる日米共同プロジェクトが始まった。日本側のケーブル敷設は、総延長4000km。敷設船「KDD丸」の乗組員は80人。責任者の細谷辰雄は、病に倒れたが、不屈の精神で船に舞い戻ってきた男だった。
 敷設は困難を極めた。50kmごとに信号を増幅する中継機が傷つき故障。中継機を引き上げ修理している間に、ケーブルが海底にたたきつけられズタズタになった。さらに毎秒2mの黒潮の流れがケーブルを襲う。ケーブルを送り出す速度を抑えると船は転覆、逆に出しすぎるとコースから外れる。
 そして航海118日目、KDD丸は至難の末、ケーブルの敷設を成し遂げた。その矢先だった。アメリカ側の敷設船「ロングラインズ号」から助けを求める連絡が入った。
 情報の大動脈を築くため、洋上で自らの技術を尽した男たちの知られざるドラマを描く。